401 名前:出世の白餅(二)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:03 ID:cg67r90c
若侍の名は、与右衛門。 近江の出だが、浅井家の滅亡で職を失い、旧浅井家臣の間をフラフラしていたが長続きせず、いっそ浅井家に勝った織田家か徳川家に仕官しようと美濃・三河まで出てきたが、うまく行かず路銀が尽きてしまった。
どうせ死ぬなら、好物を満足行くまで食って・・・と考えてこの旅籠に入ったのだそうな。
「お前様、近江と言えば私の生国。他人事とは思えませんよ!」ホロリ…
などと騒ぎを聞きつけてやって来た自分の女房まで言い出すので、
仏心のわいた彦兵衛、タダ食いを許してやった上に、
「こういう時は、思い切って一から出直すのが良いものです。親御さんも心配しておられるでしょう。一度、故郷に帰って親孝行されてはいかがです?」
と、助言まで与えてやった。
するとこの若侍・与右衛門、
「承知した。ついては、路銀を五分ばかりお借りしたい。必ず、出世してお返しいたす。」
などと再び調子に乗り出した。
人の良い彦兵衛もこの言葉にはあきれ果てたが、要望の倍の路銀をくれてやった。
「このご恩は必ず・・・必ずっ・・・・・・!!」相変わらず台詞は立派に、与右衛門は去った。
女中「これで良かったんですかねえ・・・」
彦兵衛「なに、こんな世の中だ。当てにしないで待てばいいのさ」
402 名前:出世の白餅(三)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:46 ID:cg67r90c
「何だ、あいつら・・・」その日、三河吉田の町は凍りついた。
やって来た大名行列の侍たちが、あまりにも異様な面体の者ばかりだったからだ。
顔中、刀傷が這っている者。指が欠けた者。鉄砲の撃ち過ぎで顔半面にヤケド跡がある者。
いかなる闘争を潜り抜けたか、独眼・隻腕の者までいる。
面体も荒々しい侍たちが一斉に頭をさげると、行列の真ん中の籠から、大男が現れた。
この男も、身なりこそ絹の羽織に黄金造りの太刀と重そうな皮袋とたいそう立派だが、
顔中に傷跡が残り、右手の薬指・小指が半分しか無い。この男が大名だろうか。
大名とおぼしき大男は、まっすぐにあの彦兵衛の旅籠に向かった。
彦兵衛「こ、こんな七十過ぎた老いぼれの店に何の御用で・・・」
大名は金子がギッシリ入った皮袋を彦兵衛に渡すと、深々と頭を下げ、口を開いた。
「藤堂和泉守与右衛門高虎、彦兵衛殿の言葉に従い、郷里に帰って武者修行に励み、
縁あって故・大和大納言秀長公に拾われ、中国地方を東奔西走し、山崎・賤ヶ岳で戦い、四国で命を拾い、九州を駆け抜け、大納言家の消滅後に独立して朝鮮へ渡って転戦し、関ヶ原で大谷隊の鉄砲に指を飛ばされ、功により、伊予半国の大名となり、恩を返すべく参勤交代の途上、吉田に立ち寄りました。遅参の段、御免なれ!!」
「あ・・・あの餅好きの与右衛門さんかね?!」
「いかにも。彦兵衛殿のご恩を忘れず、今日まで励んで参りました。おお、そうだ。
旗、挙げい!!」
紺地に白い丸を三つ描いた旗印が高々とひるがえった。
「白丸が三つ・・・あっ、ウ、ウチの餅じゃないか!!」
「さよう。彦兵衛殿に教わりし『白餅』の志を忘れぬよう、当家の旗印と致しました。」
高虎はその後も出世し、伊賀一国と伊勢八郡32万石の太守となり、寛永七年死去した。
高虎の遺命により、藤堂藩は参勤交代の際、三河吉田で宿泊するのが慣例となった。
で、彦兵衛の記憶力の件だが
彦ベ衛頭良いな。
脚色が誇張があるかもなんて疑っちゃうけど
それ差し引いても感動した
歌舞伎みたいでかっこいい!
日本人の仁義大切にしたいお(`.ω.´)
戦国ネタ好きだから、もっと貼ってくれ。
こうありたいものだ。
411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 01:37:54 ID:3oLCNHoX
>>402
天保十年に津藩家老が参勤交代の帰路に吉田宿に寄って
「吉例の通り餅を(殿様に)差し上げ、供の者にも出してもらった。
すこぶる佳き品。
この餅は高山様(高虎)が召し上がりになられて以来、連綿(と続いている)」
と書き残している。
高虎の死後も恩返しは続いていた模様。
凄いな。感動が増したわ。
* 講談、浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の藤堂高虎(当時、与右衛門)が三河国吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
* あるとき2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。このとき高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうということかららしい。
[編集] 実力主義者
* 高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
* 秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら、いち早く徳川家康に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。確かに忠義を重んじる武士の士風においては決して賞賛されるべきことではない。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国征伐の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
* 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。
* ただし、幕末の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍劣勢と察し、真っ先に官軍に寝返って、幕府側に砲撃を開始したのは藤堂家であったため、幕府軍側では「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と皮肉ったという。だが一方、寝返った藤堂家は、官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
* 本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。
今まで全く関心なかったけど、城もあったしそれなりに歴史はあるんだよな……。
今度、郷土史でも漁ってみるか。
シロモチくんとかいう奇妙なゆるキャラがいるけど、この話から来てたんだな
吉田城の豊川沿いに、今でも三つ餅の旗指しがあるんだぜ。
風雨でボロボロだけど、連綿と現代にも続いてるんだぜ。
シロモチ君はデザインがアレすぎる・・・
何つーか、嫌いにはならないが好きにもなれないな…