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  Hカップ以上の娘にありがちなこと 上級編

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美濃斎藤氏最後の当主斎藤龍興

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 14:48:35 ID:18XEt6fK
美濃斎藤氏最後の当主斎藤龍興

稲葉山城を落とされて長島へ逃亡その後本圀寺で足利義昭を襲撃して返り討ちなったりと
大名時代とは打って変わって精力的に信長に抵抗するが刀禰坂の戦いで
かつての臣氏家卜全の子にたたっ切られて死亡(26歳)

一説によると死んでなかったという
彼は脱出し名前を変えて越中へ
現在の富山市のあたりで原野の開墾事業に従事
「仏様は見てるから」「お経の力でたくさん米とれるようになるから」などと
その辺の人たちを励ましながらいつの間にか開墾チームのリーダーのようになる
天正8年ごろにその事業もかたがつき元龍興は一帯を経力と名づけた
また鶴に導かれて地面を掘ってみると温泉がわいたのでここを整備した(霊鶴源泉)
その後彼は出家し興国寺の住職となり中興の祖となり寛永9年に87歳で亡くなったという
世はすでに徳川家光の時代であった

2009年08月25日 | 戦国ネタ | コメント (21) このエントリーを含むはてなブックマーク

二人の息子

439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/21(日) 22:03:15 ID:/7xvC7hp
二人の息子

本多忠勝は正室との間に忠政、忠朝の二人の息子を儲けた。

家康の関東移封にともない、忠勝は上総国大多喜10万石に封じられた。

さて、関ヶ原の戦い後、家康が忠勝に加増してやろうと話を持ちかけると、
「今の石高で十分です。私に加増は結構です」と固辞する。
それでも十分功績はあったのだからと、家康はちょっと考えて次のようにした。

忠勝には、伊勢国桑名10万石を与える。
それとは別に、次男忠朝に上総国大多喜5万石を与える。

どうも忠勝は次男忠朝の方が可愛くて、何とか独立した大名にさせようと工作したらしい。

臨終の際、忠勝は家老に遺言書を預けた。その内容は、

「桑名10万石の相続は幕命により相続。
 その他、武具、馬具、茶道具など一切の物は長男忠政に譲る。
 た・だ・し、
 自分は他に黄金一万五千両を蓄えているが、こ・れ・は、次男忠朝に与える」

これを聞いた忠政は激怒して、「長男が全て相続するに決まってるだろーが!」
と忠朝に黄金を与えなかった。

一方、忠朝は「兄貴のほうが大身だし、何かとお金が必要になるだろうからいらない」
と言って催促をしなかった。

弟の態度を家老から聞いた忠政はひどく恥じ入って、今度は黄金を忠朝に渡そうとする、
忠朝は頑として受け付けない、でどちらも譲らない。
そこで本多一門の者が間に入り、黄金は二人で半分ずつ分けることで話が付いた。

しかし、忠朝は「急用があったらその時渡してもらえればいいです」と兄の蔵に黄金を
置いたまま、とうとう一度も手に取ることもなく、大坂夏の陣で戦死した。

まあ、三人とも立派だったんだよな。

2009年08月23日 | 戦国ネタ | コメント (21) このエントリーを含むはてなブックマーク

花入れと金づち

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 00:11:25 ID:BEZ0P6ve
花入れと金づち

武野紹鴎はあるとき古道具屋の店先に伊賀焼の両耳のついた花入れを見つけた。
紹鴎はその花入れが欲しかったが、急用の途中なのでそのまま行き過ぎた。

紹鴎は翌日古道具屋に買いに行ってみたが、すでに千利休がその花入れを買って
しまっていた。

ある日、千利休よりその花入れを用いた茶会を開くと誘われた。
茶室に入ると例の花入れが床の間に飾られていた。
なんと、両耳であったはずの花入れの片耳を欠いてあるではないか。

紹鴎は心の内で大きく頷き、茶が終わってから利休にこう言った。
「自分もこの花入れを見たとき片耳を欠いて使えば面白いと思いました。
もし、今日利休殿が両耳のまま花入れを使用されていれば、片耳を叩き割ってし
まおう考えていました。
ほらこの通り。」と懐中から小さな金づちを出して見せた。

利休と紹鴎は互いの審美眼の確かさを再認識したという。

2009年08月15日 | 戦国ネタ | コメント (23) このエントリーを含むはてなブックマーク

加藤清正と浅野幸長

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 23:17:40 ID:U/FGy2Xg
朝鮮出兵で浅野長政は心配で夜も眠れなかった。まだ若い我が子が朝鮮に出兵するのだ。

長政はたまらず清正の屋敷に駆け込んだ。
驚いた清正は兎に角話しを聞いた。

長「まだ若い幸長は血気盛んだ。敵陣に真っ先に突入して死んでしまうだろう」
清「若いならそれくらいの方がよろしいでしょう」
長「異国で日本のような戦が出来ようか?勝手が違うと私は思うのだ」
おろおろするのを見かねた清正は
「なら私が親となり朝鮮では幸長殿の面倒をみましょう」
っと幸長の義父となる事を長政に告げた。
幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた。
其を聞いた幸長も「憧れの加藤様と一緒に戦える」と喜んだ。
翌日二人は揃って清正邸に赴いた。
長「いいか幸長、これよりお前の父は清正殿だ。
知っての通り清正殿は天下に名を知られた武士だ。
お前も清正殿を見習い清正殿のようになれ」
幸「よろしくお願いします、父上」
清「私は子が居ないからいきなり子が出来たようでこれは嬉しいものだな」

その後、朝鮮出兵中二人は泥水啜って戦い抜いた。
幸長は清正を本当の親父のように思い「清正殿に成りたい」と清正を目指した。

帰国した幸長は大いに成長していた。
清正の下で激戦を潜り抜けてきた幸長は立派な将に成長していた。
長政が家康に靡いても幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家に尽くした。
幸長にとっては家を盛り上げてくれた恩は豊臣家にあれど一度は謀反人と罰せられた豊家に思い入れようはあまりない。
しかし彼は武士としての忠を貫いて行動したのである。
それは清正から学んだ忠義の姿勢である。

いつの間にか清正と幸長は豊臣家の二大重鎮となっていた。彼は清正と並び称される事が誇りだった。

しかし義父である清正死後、後を追うように幸長も死んでしまう。
この二本の柱が折れてしまった事により豊臣家は暴発し滅びる。


↓死因
清正「お主、童貞だな」
幸長「どどど童貞ちゃうわ」
清正「まぁまぁ一緒に街にでもくりだそうや。フヒヒヒヒ」
幸長「ごくりっ…」

2009年08月11日 | 戦国ネタ | コメント (21) このエントリーを含むはてなブックマーク

召し使いの女

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/28(金) 00:17:14 ID:WBe8c8bb
召し使いの女

清洲城主・福島正則の家来に、大崎玄蕃という銭勘定に無頓着な武将がいた。
ある時、賤しい格好をした女が武家奉公をするために清洲に来たが、誰も召し抱
えなかった。ところが、玄蕃は家来の反対を押しきって召し使いとして採用した。
以後女は陰日向なく21年間働き、玄蕃も2万石の身上まで出世した。
ところが、福島家が改易されるや家来・奉公人はことごとく退散し、残ったのは
玄蕃の家来3人と召し使いの女1人だけとなった。
「かつて2万石の身上だったワシも、いまやすかんぴんじゃわい。」と玄蕃が自嘲
すると、
女は庭石を動かし穴の中から、金5000両・銀2500枚を取り出して玄蕃に献上した。
「このような大金をどうしたのじゃ?」と驚いた玄蕃に対して、
「旦那様は銭勘定に無頓着ですから、万が一のことを考えて旦那様の収入の一部
をコツコツ蓄えておきました。旦那様の金ですからお役立て下せえ。」
玄蕃は女の機知に驚いたが、互いに「金は受け取れない」と押し問答になりそうなので、
「ではこうしよう。銭の山を交代でひと掴みしあいワシとそなたで山分けしよう
ではないか。」
女はその提案を承諾し、玄蕃と金を山分けした。
玄蕃は後に徳川頼宣に仕官できたという。
(名将言行録)

2009年08月02日 | 戦国ネタ | コメント (28) このエントリーを含むはてなブックマーク
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