37 名前:四天王名臣録 2/4[sage] 投稿日:2009/01/10(土) 21:29:45 ID:afOtHKON
細川藤孝(幽斎)の家臣の子に、有吉四郎右衛門立行という若者がいた。
『鈍き生れつきと諸人存知候 』と「細川家記」に書かれるようなパッとしない若者だった。
「まあ、何かの時に盾ぐらいにはなるだろう。」藤孝は、彼を嫡男の与一郎に付けた。
今日も今日とて、与一郎は四郎右衛門の肩車で、遊びに出かけた。
四郎「若様、このまま行くと、大きな川がありますが・・・」
与一郎「かまわん、まっすぐすすむのじゃー!」
四郎右衛門は、バカ正直に川の中へ進んだ。意外に深く、頭までズッポリ水に浸かった。
与一郎「だ、だいじょうぶかー!しろうえもーん!」 答えは返ってこなかった。
ついに向こう岸に渡り着いた四郎右衛門、与一郎を下ろすとバッタリ倒れて動かなくなった。
「し、しぬなーしろうえもん!しんではならぬ!!」
与一郎は他の家臣を呼び、四郎右衛門の腹を踏ませ(・・・)、たまった水を吐き出させた。
なんとか蘇生した四郎右衛門、酸素欠乏症にでもかかったか、この後にめざましい働きを
するようになり、関ヶ原の戦いの際には、与一郎忠興の命で筆頭家老・松井康之と並び
豊後杵築城代になり、黒田如水と連携して大友軍を撃退している。
関ヶ原の後、天下が静まってくると各家で武功の文書化が流行り、四郎右衛門のもとにも
嫡男・康以らが記録に残そうと武辺話を聞きに来た。四郎右衛門は鼻で笑って言った。
「そんなことは外様や新参者がやることだ。オレの働きは、殿がよーーく存じておられるわ。
よって、細川家臣にオレの名字が残れば、それが武功だ。くだらん事をするヒマがあるなら、
当家の血が絶えぬ工夫でもせい!!!」
38 名前:四天王名臣録 3/4[sage] 投稿日:2009/01/10(土) 21:30:24 ID:afOtHKON
各務兵庫助元正は、森家の家老にふさわしく、武勇の人として知られた。
天正10年(1582)3月、高遠城攻めの時のこと。斥候に出た元正は、塀の狭間から城内を
うかがった。隊ごとに分かれて、評定の真っ最中だった。
(よし、今のうちに攻めかかろう。戻って殿にお知らせせねば・・・)
元正は狭間から頭を引っ込めようとしたが、 「むううぅぅぅ?!」
背中の鳥の尾の指物が引っかかり、城の内側に転げ落ちてしまった。
元正「 あ・・・(゚д゚)」 城兵「 (゚д゚) 」 当然、敵が殺到してきた。
「うおおおぉぉぉ、こうなりゃヤケだ!!ヽ(`Д´)ノ 」 斬って斬って斬りまくった。
織田信忠「・・・あれ、誰?」
森長可「と、当家の士、各務兵庫と申す者!!」
残念ながら、鬼武蔵がどんな顔をして信忠に答えたか、伝えられていない。
ともかく、この時の武功で元正は『鬼兵庫』と呼ばれるようになった。
つまり、森家は二人の鬼が率いていたことになる。
もちろん、家老にまで登った男であるからには、ただの粗忽者ではない。機転もきいた。
同じく武田攻めの時のこと、元正は信玄の弟・逍遙軒信廉の討伐を命じられた。
だが敵もさるもの、事前にこの動きを察知しており、元正は武装した信廉の出迎えを受けた。
不意を突くことに失敗した元正は苦慮したが、突然ひらめいた。
元正「あっ、百段!!」
信廉「え?どれどれ?!」
信廉が馬ヲタだったのかは、不明だ。 が、元正は信廉の油断を突き、見事に討ち取った。
39 名前:四天王名臣録 4/4[sage] 投稿日:2009/01/10(土) 21:32:04 ID:afOtHKON
慶長18年(1613)、伊達政宗の五男・宗綱が成人し、烏帽子親として茂庭石見守綱元が
選ばれ、綱元の屋敷で元服式が行われた。
祝いの宴席では能が舞われ、膳には豆ご飯・イワシの塩焼き・芋汁が並んだ。
翌日、仙台城で成実と祝宴の話になった政宗は、
( ●Д゚) 「能は良かったけど、メシがイケてなくてなァ・・・」と正直にこぼした。
共感を覚えた成実は後日、綱元に会うと、「主君に粗末な膳を出すとは非礼ではないか」
と、素直な感想を告げた。
これを聞いた綱元、即座に政宗のもとへ飛んで行き、主君に詰め寄った。
「あの人取橋の戦の折り、殿は
『早く世を平和にして豆飯だの、焼きイワシだの、イモノコ汁だのを腹一杯食いたいのぉ…』
と言われました。それゆえに今、この時にそれらを召し上がっていただいたのです。
その志をお忘れになるとは・・・!!」
(●ω・`) 「 ・・・・・・ 」
さすがの政宗も、日ごろは温厚な男の熱い涙と叫びに、言葉も無かった。
以上、四天王を支えた人にスポットライトを当ててみました。連投スミマセン。
誰か3行でまとめてくれ
(●ω・`) 「 ・・・・・・ 」
茂庭綱元は、鬼庭(おににわ)の方が信長ファンとしては解りやすいかな。
もっと投下してくれ。
百段は金山城の石段を百段も一気駆けできるのでその名がついたという。長可どの、馬で階段なんかを全力
疾走しないで下さい。
やりかねない人だから、やりきれない・・・。寛永期、讃岐国・生駒家の馬術指南役の曲垣平九郎が愛宕山の
石段百段余りを馬で登って徳川家光に「そなたは日本一の馬術の名人!」と感嘆されているけど、長可とこの
馬はかようなレベルにいたのだ。
段といえば、距離の単位でもある。百段を全力疾走できることからつけられた名前とも言われている。
百段の「段(たん)」というのは距離の単位。六尺=1間 六間=1段。
1反、2反の反と同義語であるが軍馬には「段」の漢字のほうが感じがよいのだろう。
一段が約11mなので、距離にして約1,100m。ともかく、サラブレッドですらその全力疾走可能距離は約300m
くらいらしいので、実にその4倍近くを走るこの馬は、大変すぐれた長可自慢の名馬であったに違いない。
しかし、じゃあ、忠政の愛馬「八段」て・・・・。
お前、政宗じゃねぇだろww
綱元にとっては、人取橋は忘れられないだろうしなあ。