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568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/18(火) 18:06:45 ID:vu+4blV7
彦根城の人柱
慶長八年(1603)、家康の命により築城の始まった彦根城。工事は順調に進んだが、
天守の築造にいたってとたんに進捗が滞った。どうやっても上手く行かないのだ。
これに、工事関係者は「人柱を用いるべきではないか?」
と、ささやき始めた。この声は藩主、井伊直継にまで達したが、直継は
「人柱など立てても、工事が進むわけではない。人命を無駄にしてはならぬ。」
と、それを認めなかった。しかし、工事は遅々として進まない。
責任者の普請奉行は、深く悩んだ。自宅でも工事の事ばかり考えていた。
どうすればこれを打開できるか…
父の悩む姿に、その娘、お菊が、思いつめた顔で言った
「父上様、私を人柱にしてください!」
唖然とする父、そして母。だがお菊は言う、
「父上はいつもおっしゃっているではないですか、殿様がお困りの時は、
命を捨ててご奉公しなければならない、と。」
「だが、それは…」
「今こそわたくしが、殿様のお役に立てるときではございませんか。
そのために投げ出す命なら、本望でございます!」
娘に説得され、翌日普請奉行は直継にこれを進言した。
「なんと…」
直継はしばらく考え、言った
「お主の娘の忠心、感じ入った。このとおり、礼を申す。」
主君であるにもかかわらず、直継は普請奉行に深々と頭を下げた。
お菊は、人柱となることになった。
数日後、白装束に着替えたお菊は、白木の箱に入り、埋められた。
「殿様のお役に立ってまいります。」
それが最後の言葉だった。
普請奉行は、娘が埋められるところを見ることが出来なかったと言う。
お菊の埋められた数日後、天守は無事、天守代にすえられた。工事は成功した。
直継から、普請奉行の元に書状が届いた。
お前達には、この工事の事で特に礼を言いたいので、内儀と一緒に屋敷に来て欲しい、と。
夫婦二人、御前にまかり出た。平伏していると、直継が入ってきた。「顔を上げよ」
視線を上に上げると
「あっ!」
「父上様!母上様!」、お菊がいた。
「わしはな」
仰天している普請奉行夫婦に、直継は言う
「最初から、人柱などするつもりはなかったのじゃ。だが工事の者達はもはや、
人柱をしないと納得できないようであった。だからお主の娘を埋めると見せかけ、
こっそり空の箱と取り替えたのだ。みな、人柱があったと思い、
おかげで工事は順調に進んだ。黙っていてすまなかった。礼を申す。」
普請奉行は涙を止める事ができず、ただただ体を震わせながら平伏していた、と言う。
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手抜きじゃないと思うぞ
……って、このあと、お菊さんはどんな人生を送ったんだろ……?
伊井さん誇れる(>_<)
このときの直継って後継いだばかりで13、4歳なんだよな。
餓死じゃなくて窒息死だと思うぞ。
即身成仏みたいに空気穴作るわけじゃないから。
小早川秀秋が家臣を手打ちにしてから霊が出る様になったという
中国地方の人、聞いたことアル?
地鎮祭とか知らない子が居たりしないか?
城の改修の際に人柱の代わりに百万一心と書いた石を埋めさせたって話なら知ってる
ちょwwwお菊違いwww
当時においても、縁起や迷信を「非合理的」と捉える精神が存在してたという事だな。
だが、当の直継自身は大名としては不遇だったな。
病弱だった為に、大坂の陣では家康の命で腹違いの弟直孝(分家して1万石を領していた)に家中の指揮を取らされた。
あげく、これまた家康の命でその直孝に彦根藩主を継がされ、直継は安中3万石に移封。
直孝が継いだ彦根藩はその後何度も加増を受けて、最終的に30万石(天領預かり分を含めて35万石格)の大藩にまでなったが、直継自身はそれをどういう目で眺めていたんだろうか。
江戸時代、1人の藩士が先祖を尋ねて郡山城へ旅をしに行った
帰ってきた藩士の手には百万一心と刷られた紙
曰く、郡山城で見つけた石碑を写し取ってきた、
一日一力一心とも読め、皆で力を合わせれば何事も成し得るという意味である、
おそらく築城の折に人柱を立てまいと埋めたんだろう…
それを見た藩士一同はいたく感じ入り、以後百万一心は定説になった
しかし明治以降、百万一心の石碑はどんなに探しても見つからなかった
仕方がないので拓本をもとに新たな石碑を建てた
もしかしたらその藩士は藩の結束を守るため、自作自演を行ったのでは…
藩の皆に何か励みを持ち帰りたかったのでは、というお話
どっかで読んだ
身内が人柱になるのは名誉なことだったんだろうかね?