気まぐれへっどらいん

  Hカップ以上の娘にありがちなこと 上級編

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命の重みを学ぶ

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/24(金) 16:42:35 ID:h6k95Dc3
鯉を食った話

まだ家康が岡崎にいた頃、家康は城中の池に、3匹の鯉を大事に飼っていた。

ところがある日、一番大きな鯉が消えうせていた。家康が番人に問いただすと、
家臣の鈴木久三郎という者が、殿から拝領したのだといってこの鯉を調理させ、
さらに同僚達を呼んで織田信長から送られた酒と一緒に平らげてしまった、ということであった。

なんと言うやつだ!鈴木を成敗する!怒った家康は長刀を握り締め、鈴木を呼びつけた。
御前に現れた彼は大小を後ろに投げ捨て、平伏し、言った。

「恐れ入った事をいたしました。しかし魚鳥のため人の命をお取りなさるとは、なんと愚かな。
殿の事を見損なっておりました。さあ、ご存分に!」

と、家康の前に首を差し出した。

このとき家康は気がついた。つい先日、城の堀で魚を盗った徒士と、禁猟地で鳥を撃った
家士がいて、近く処刑するつもりで捕らえさせてあった。
鈴木は、命をかけてそのことに対する諫言をしているのだ。

家康は手に持った長刀を放り出すと

「久三郎、一命を許す」

と言って、奥に引っ込んでしまった。先に捕まった二人の家士も許された。


なんとも家康らしいお話。

2009年03月10日 | 戦国ネタ | コメント (25) このエントリーを含むはてなブックマーク

島津家と猫の関係

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 23:01:24 ID:e7FJPJ0G
島津家と猫の関係。
島津義弘は朝鮮出兵の際、猫の瞳孔で時刻を知るため七匹の猫を
従軍させた。朝鮮の島津家中では籠に猫を入れて背負っていたそうだ。
そのうち五匹は死んでしまったが、二匹は生き延びて帰国した。
その一匹は黄色と白の毛色で、義弘の二男・久保はこの猫をヤスと名付け、
とてもかわいがっていた。久保は二十一歳で陣没してしまうが、
そのあとも地元ではこの毛色の猫をヤスと呼ぶようになったという。
この猫の供養のため、鹿児島には猫猫神社があり、ヤスと同じ毛色の
猫がえがかれた絵馬がある。毎年時の記念日には時計業者が
神社を訪れるという。猫の健康にも御利益があるとか。

      _                  , -、        , -、,っ
   <´ 3ヽ、    ∧,,∧     rl ε>    < 3   )    ∧,,∧       / ⌒>
    ∠、・_,つノ  c'(__,)っ    (_c、_l ,_>っ   ∠、・_,、つ   c(´=ω=`)っ    と、__,>

2009年03月08日 | 戦国ネタ | コメント (20) このエントリーを含むはてなブックマーク

失う事のない誇り

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/22(水) 02:46:55 ID:oCYg0y9A
長宗我部関連でもう一つ

大坂夏の陣の時のこと。佐竹親直の子息、忠次郎(母は元親の娘)が
伊達政宗の軍勢に捕らえられた。
忠次郎の顔を見た政宗、「これはただ者じゃなさそうだ」ということで
家臣の家を継がせた。これが後の柴田外記で、寛文の伊達騒動に際して
活躍し、主家を救おうと奔走することになる。
しかし彼は、長宗我部氏としての意識も忘れたわけではなく、
香宗我部氏が牢人していた際には、伊達家への仕官を斡旋している。

そんな柴田外記の、船岡城跡に作られた墓石には柴田家、佐竹家
長宗我部家、3家の家紋が刻まれている。

2009年03月02日 | 戦国ネタ | コメント (7) このエントリーを含むはてなブックマーク

政宗の愛馬「後藤黒」

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/20(月) 23:40:05 ID:atgcrood
後藤黒

政宗の愛馬は、その名を「後藤黒」といった。名のとおり、美しい黒い毛並みの馬であった。
戦のたび、後藤黒は政宗を乗せ、数々の戦場を駆け巡った。
「後藤黒の馬首が向かう所、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」と言われた。
後藤黒にまたがる政宗は、伊達軍のシンボルであった。

が、その後藤黒も歳を取った。
大阪の陣では連れて行くことをあきらめ、厩舎に残していった。
主人においていかれ、後藤黒は酷く寂しい様であった。そしてある日厩舎を抜け出し、
城の崖から飛び降り、死んだ。
政宗と共に戦場にいけなくなったことを悲しんで死んだのだ。と、言われた。

政宗は後藤黒が飛び降りた天守台の麓にその墓を建て、深くその霊を弔ったという。


後藤黒が駆け回った戦場も、日本から消えようとしていた。そんな頃のお話。

2009年02月26日 | 戦国ネタ | コメント (14) このエントリーを含むはてなブックマーク

「徒然草」が日本人に再発見された時

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/18(土) 15:16:40 ID:fgpTngI3
学問のこと

慶長八年ごろのこと、林羅山や遠藤宗務、松永貞徳といった人々、がそれそれの研究している
「四書新注」「太平記」「徒然草」などの、一般の人々への公開講義を行う事を企画した。
人々の間に、学問を広める事を目的とした者である。

ところがこれに、儒学を家学とする清原家などの、京の伝統的な学派が異議を唱えた。
そして彼らはこれを禁止させるため、家康の元に、今川氏真を派遣した。

氏真は言う、
「学問とは、代々それを受け継いだ師が、その伝統の秘伝を含め弟子に教え伝えることで始めて成就するものです。
それを公開し誰にでも学べるようにする、などと言う事は、学問そのものを破壊してしまいます。」

家康はこう答えた
「師につかなければ、学べないようなものは、学問ではない。芸だ。
学問とは、何から学ぼうが、学ぶ者の努力次第で、天下万民、誰でも会得できるものでなければならない。」

こうして、公開講座は無事開かれた。さらにこの講義内容は出版され、日本全国に知的な興奮を巻き起こした。
一部の人々にのみ伝わっていた「徒然草」が、日本人に「再発見」されたのも、この時である。

学問の世界が、中世から近世的なものへと切り替わった瞬間とも言われる、有名なお話。

2009年02月24日 | 戦国ネタ | コメント (21) このエントリーを含むはてなブックマーク
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