気まぐれへっどらいん

  Hカップ以上の娘にありがちなこと 上級編

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若き日の信長の話

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 00:13:26 ID:SN2/BJQ+
有名な逸話だとは思いますが、若き日の信長の話

尾張の一色村に左介と言う男がいた。この男が、知り合いである隣村の甚兵衛の自宅に、
彼が年貢納入のため留守にしている間に、夜盗に入った。
ところが甚兵衛の女房がこれに気がつき、佐介ともみ合いとなり、左介は逃げていったが、
女房は彼の刀の鞘を取り上げていた。

明朝、女房はそれを証拠に奉行所に届け出た。左介は引き立てらて来たものの、容疑を否認。
そこで奉行は火起請(真赤に焼いた鉄を握らせ、持てるか否かで真偽を判定するもの)を行わせることにした。

左介は焼いた手斧を持つと、たちまち放り出した。これは有罪である。ところが、信長の乳兄弟として
当時織田家で権勢を誇っていた池田恒興の家来達がこれに介入、左介を無罪にせよと迫った。
左介は、池田恒興の被官の一人だったのである。

この騒ぎの中に、鷹狩りから戻る途中の信長が行き当たった。何をしているのかと訳を聞くと、たちまち顔色を変え、
「その火起請はどれほど焼いたのか見せてみよ」と言った。
奉行の者が同じように焼くと、信長は「わしがこの火起請を成し遂げたら、この左介を成敗する。良いな。」
と、焼いた手斧を握り締めると、そのまま3歩歩いて、柵に置いた。

「確かに見たな?」

そう言うと、たちまち左介を成敗した。

2009年02月22日 | 戦国ネタ | コメント (26) このエントリーを含むはてなブックマーク

戦国の、戦わなかった英雄のお話

455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/13(月) 00:46:19 ID:/AzWYN/d
山内上杉憲政の家来に、大谷休伯という男がいた。侍と言うよりも、農政を担当する文官であった。
天文二十年(1551)の平井城落城により、山内上杉憲政は越後の長尾景虎の元に逃れるが、休伯は軍役に
関わらなかったため許され、金山城主、由良成繁の元に身を寄せた。

しばらくすると休伯は、成繁の妻輝子の実家である館林城主、赤井氏より相談を受けた。彼の領地、館林の開拓を
やってくれないか?と。

館林を調べたところ、その地は利根川と渡良瀬川という二つの大きな川による水害、冬の強風(からっ風)で
火山灰や赤土が舞う風害、火山灰などの吸水性からくる水不足に慢性的に悩まさ、農民達も多くが貧窮していた。
特に水不足は深刻で、田植えの時期になるたびに水争いが起こる有様であった。

「これは、大変な事業になります」

この土地の問題を解決するには、長い時間と、莫大な資金と、労力が、どうしても必要であることを説明し、
それに対して覚悟があるのかということを、休伯は赤井氏に確認をした。彼らも、覚悟をした。
休伯は館林へ居を移した。事業が始まった。

永禄元年(1558年)、防風林開発に着手。場所は館林西南多々良沼のすぐ側、館野ヶ原と呼ばれる土地で、
被害の大きさと新田開拓を見越してのものである。館林に大量の松苗はないので、由良成繁の金山城のある
金山から分けてもらうことにした。

初年に植えた松は日照りにより枯れるものが多かった、それを館林の農民達は馬鹿にした。「ほら、無理なことだ」と。
しかし翌年に、館野ヶ原に祠を造り松の成長を祈ると、今度は無事に成長した。

事業は順調に行くかと思われた。が、暗雲は一気に訪れた。永禄五年(1562)二月、北条氏についていた館林赤井氏は、
上杉謙信の軍勢の襲来により滅ぼされてた。事業主体が、消滅してしまったのだ。
休伯達は呆然とするより他無かった。もはや、この事業は続けることが出来ない。

その時である

館林の村落の者達が、休伯の下に次々とやってきた。「どうか事業を、止めないでください」

資金に関しても人手に関しても、出来うる限り協力する、と言う。農民達は、休伯らが、自分達のために
働いていることを、いつしか理解していたのだ。ここに彼らの活動は、地域事業となった。

住民達の協力により、二十年の歳月をかけて、五百十八町、518haの防風林は完成した。
この事業に必要とした松苗は115万本という。現在の多々良沼の松林はこの松の子孫である。
これにより風害が減り、開拓が行いやすくなった。
防風林開発が軌道に乗ると、休伯らは堤防と用水路の開発を同時に進めることにした。

この地方の水利から渡良瀬川と多々良沼が用水に適していると判断。荒山小左衛門の協力の元、現在の
太田市内ヶ島付近から明和町大輪、十七ヶ村、五百九十九町に至る「上休伯堀」という長大な用水路を開発。

さらに休伯は、独力で館林市多々良沼から明和町江黒、十八ヶ村、四百九十七町に至る「下休伯堀」を開発。
休伯堀は合わせて三十五ヶ村、約四百町に及んだ。これにより1000haもの土地に水が供給されるようになった。
堤防の開発も進み、地域一帯の農作物の生産性は大幅に上がった。

休泊はこの大事業を、ついに成功させたのだ。

天正六年(1578)、休泊は病気により自宅で養生するようになる。熊倉善三郎に後を任せ、天正六年八月二十九日、
数年前に娶った妻と、三歳になる息子作太郎に看取られ静かに息を引き取った。法名「大谷休泊関月居士」。

領民は誠実な人柄で開発事業を指揮してくれた休伯の死を悼み、松苗の成長を祈った館野ヶ原の祠を神社とし、
篤く弔った。この神社は「大谷神社」と名付けられ、今も館林の人々により、大切に保存されている。

時が過ぎて昭和二十八年、四百年にわたって領民を支えた大事業に敬意を表し、休泊の墓所は県指定史跡とされた。


戦国の、戦わなかった英雄のお話。

2009年02月19日 | 戦国ネタ | コメント (18) このエントリーを含むはてなブックマーク

島津の軍陣

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/09(木) 23:20:03 ID:7l5IqVQc
島津の軍陣

天正十年十一月、日向宮崎の国人、上井覚兼は島津氏の命を受け、肥後の八代に出陣した。
その彼の、着陣してからの日記

十一日:八代に到着。大将、島津忠平殿の元に挨拶。

十二日:伊集院忠棟殿が着陣された。共に島津家久殿の宿舎に招かれ、一日中宴会

十三日:島津忠平殿の宿所で会議。すると使者に出ていた者達も帰ってきて、
     会議後そのまま宴会

十四日:朝、伊集院忠棟、肝付兼寛殿らが上井の宿舎にやってきて、そのまま宴会。
     夜、忠棟殿から風呂に誘われ、そのまま又宴会。

十六日:島津忠平殿の宿所で会議。会議が終わると又宴会。
     石原と言う武士が狂言を舞った。面白かった。

十七日:忠棟殿と肝付殿の宿舎に行き、昼間から宴会。途中で会議に呼び出される。
     一部の軍勢を有馬に出発させることが決まる。会議の後宴会。

十八日:忠平、家久御兄弟と忠棟殿の宿舎に行く。宴会。一日中飲み明かす。
     幸若与十郎というプロの芸人が呼ばれていて一曲舞った。気が利いている。


この後年明けの正月11日まで着陣していたが、ずっとこの調子だったりするw
島津の陣では戦場での強さ以上に、肝臓の強さが必要だった、と言うお話。

2009年02月18日 | 戦国ネタ | コメント (13) このエントリーを含むはてなブックマーク

芋鍋

180 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 22:02:49 ID:bg+5s1AL
レスをくれた皆さん、ありがとうございます。
稚拙な長文ですが、読んで頂ければ光栄です。
 芋鍋(1)
 徳川四天王の一人、井伊直政の次男である井伊直孝の
若き頃の逸話である。
 直孝は父同様、その才覚を徳川家康に見込まれ、若くして
周囲に一目置かれる存在となっていた。
 政務に勤しむ直孝に、ある老臣が声をかけた。
「直孝、お主の様な若者が仕事に励んでいるのは嬉しい。わし
たちも励みになる。そなたを見込んで話すが、実は我々年寄り
連中が集まり、二月(ふたつき)に一度、合議をしておる。
どうだ、お主も来ないか?」
 聞けば、参加する者たちは徳川家古参の、歴戦の武将達だった。
直孝に否やがあろうはずも無く、喜んで参加を希望した。
2009年02月14日 | 戦国ネタ | コメント (17) このエントリーを含むはてなブックマーク

親の手紙、子の心

307 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/06(月) 10:27:51 ID:uKBhvrK7
親の手紙、子の心

毛利元就の、三本の矢の逸話の元ともなった、有名な「三子教訓状」。
この話には、少し、続きがある。

この書状、元就からは、読んだら返すようにと言われていたのだが、当主隆元はこれを、大事なお守りとして取り扱い、
また、大切な部分を箇条書きにして記録をしていたため、年を越しても手元においていた。
そして、詫び状とともに、この教訓状を返却した。

それへの、元就の返書

「去年お届けした書状を、ただいま頂戴しました。
本当に、私の意見をこのように真剣に考えていただき、大切にしていただいた事、
こう言うのもなんですが、これほど嬉しい事はありません。…あの書状はもう一度お届けします。
どうかそちらに置いて下さい。

あの書状に書いたように、事につけいつも、妙玖(亡妻)の事ばかり考えています。
一人になってしまって、内外の事全て、自分一人でしなければならない常態です。
隆元、元春、隆景のことは勿論、宍戸に嫁いだ娘にも、色々進言したいことが多いのですが、
もう私もくたびれ果ててしまって、根気も続かず、妙玖がいてくれたらと、思うばかりです。
本当に語り合える相手も無く、自分の胸に語りかけているような有様です。
内は母親が治め、外は父親が治めると言いますが、本当にそのとおりだと思います。

余計なことばかり書いてしまいましたが、口で語れるようなことではないので、つい筆に任せて
書き連ねてしまいました。大したことではありませんので、暇な時にでも読んでください。

この書状は恥ずかしいので、読んだら、なるべく早く返却してください。」

2009年02月13日 | 戦国ネタ | コメント (12) このエントリーを含むはてなブックマーク
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