気まぐれへっどらいん

  Hカップ以上の娘にありがちなこと 上級編

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政宗はおばあちゃん子

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/14(金) 03:58:29 ID:l6pY+QGh
キングオブDQNとしてこのスレでは有名な政宗だが
実はおばあちゃんッ子だという意外な側面があった。おばあちゃんとは勿論
輝宗の母親であり、岩城重隆の娘、かつて晴宗が婚礼前に拉致して強引に
妻にしたという逸話をもつ久保姫である。幼少の頃、眼を失って醜い容貌に
なってしまった後、母親の義姫は政宗を疎んじだしたようだが、
容貌も気にせず、自分をとても可愛がってくれた優しいおばあちゃんの久保姫を、
政宗は終生慕っていたようだ。

米沢から岩出山に移封された際、おばあちゃんの久保姫は根白石という場所に移った
ここは久保姫の故郷の岩城に似ていたらしく、政宗に「おばあちゃんはここが気に入ったの
死んでもぜったいここを動かさないでね」と遺言して亡くなり、根白石に葬られた。
政宗はおばあちゃんのために根白石に宝積寺という寺を建てて供養した。

さて、根白石は岩出山からはかなり遠く、仙台に城を移してもまだ遠い場所だった
ちょくちょく墓参りもできないなと思った政宗だが、おばあちゃんの遺言もあるから
墓を移すこともできない。

ということで、なんともう一つ、仙台城下にも寺を建ててしまった。

政宗は、仙台にいる間は朝夕、城から寺の森を目印にして手を合わせていたという。

2009年04月11日 | 戦国ネタ | コメント (16) このエントリーを含むはてなブックマーク

前田の両腕

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/13(木) 23:34:04 ID:HIFezZPh
前田の両腕(一)

信長の美濃攻めのころ、若き前田利家の姿もその軍勢の中にあった。
しかし、信長の近習を斬っての逐電から帰参を許されたばかりの利家に従う者と言えば、
若党の長八郎ただひとり。

利家「とは言え、わしは初陣の折、父上よりいただいた金子が未だふところにある。
    いざとなればこの金で人を雇うなり、武具を新調するなりして功名をあげてやるわ。」
長八郎「それは良きお心掛け。実は、わしもいささかの貯えを常に持っております。」
利家「ならばお互い、いくら持っているか比べてみるか」 長八郎「応よ」

利家が4両3分、長八郎が2両1分持っていた。だが長八郎の知行など、利家の1/4も無い。
「すれば長八、割合で行けばうぬの方がわしより金持ちではないか!」 「( ̄ー ̄)ニヤリ」
大いに笑いあった。

それから利家は立身を重ねたが、折に触れ長八郎に
「2両1分を持っているか?わしは4両3分をまだ持っておるぞ」と話しかけ、長八郎こそが
自分の一の家臣であることを周りに伝えることを忘れなかった。

長八郎も良く恩に答え、浅井・朝倉との戦では利家をかばって銃弾を受けたり、
長篠の戦いで敵に足を斬られた利家のもとに駆けつけこれを救うなど利家の盾となり戦った。
やがて、利家の「又左衛門」より一字授かり又兵衛と名乗り、
さらに 村井豊後守長頼 と名乗り、利家の筆頭家老として天下に名を知られた。

長頼の子は利家の娘を妻に迎え、その子孫は加賀百万石の重臣団「加賀八家」にあって松根城代として1万6千石を受け、代々年寄職を務めた。
2009年04月05日 | 戦国ネタ | コメント (11) このエントリーを含むはてなブックマーク

淀の渡し

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/13(木) 18:07:54 ID:bBShDXUK
淀の渡し

千利休は例の木像が不謹慎だとして突如失脚した。
びっくりした利休は細川忠興・芝山監物らに頼んで、必死になって弁明に努めるが、
監物がもっとも頼みとした蒲生氏郷にまで、「一笑一笑(もうむだだの意)」と断ら
れる始末。
堺の会合衆仲間住吉屋宗無・万代屋宗安も利休の手紙を無視し、あれほど利休の周り
に群がった人も,かかわりあいになるのを恐れて誰も利休に近づかくなった。

2月14日に秀吉は利休を堺に追放する。当然、時の最高の権力者から睨まれてまで切腹を命ぜられた利休を見送りに行く者はいなかった。
そんな中、淀の渡しに見送りにきたのは、細川忠興と古田織部のたった二人だけであった。

利休はこの2人に感謝をしてそれぞれに自作の茶杓を進呈した。
織部はこの茶杓に「泪」と名づけ、忠興は「ゆがみ(命)」と名付けた。
「泪」と「命」の茶杓はこれから先、利休の遺品として重宝されてゆくことになる。


参考1:竹茶杓 銘 泪
参考2:茶杓 銘ゆがみ

2009年04月03日 | 戦国ネタ | コメント (10) このエントリーを含むはてなブックマーク

勝重の裁定

238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/09(日) 16:04:13 ID:fpLUCQGR
昔、越後においてのこと。山伏がある家に宿を借りた。
ちょうどその時、その家の亭主は、国入りする領主のお出迎えに出るところだったが、
山伏のさしていた刀が大変見事だったため、亭主はこれを借り受け、腰に挿して出かけていった。

するとその留守中に、越後一国に徳政の札が立った。

亭主は「徳政が出た以上、借りた者は返さなくて良い!」と、山伏に刀の返却を拒否。
これに山伏も怒りお上へ訴え出る。双方引かず、この訴訟はついに、江戸において
徳川家康の直裁を仰ぐ、という話になった。

ちょうどこの時、京都所司代、板倉伊賀守勝重が江戸に滞在していた。
家康からの「この訴訟いかがすべきか」という諮問に勝重は、「私にお任せください」という。
そして亭主と山伏を呼び出し、こう、判決を述べた。


「徳政の札により、刀が亭主の物になったことは間違いない。

ただし
同じく宿として借りた亭主の家は、山伏の物になったとする也。」


亭主は大いに慌て、謝罪し刀を返しさらに多額の金まで支払って、どうにか家を取り戻したとか。

2009年03月24日 | 戦国ネタ | コメント (14) このエントリーを含むはてなブックマーク

小倉城の図面事件

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 17:05:30 ID:g9utkbeq
>>874
忠興「こないだオレ、マイホーム(小倉城)建ててさ、それが…」
忠政「…この手の話ってやたら細かい上に長くてウザイよな」

あまり忠興が吹くのでくやしくなった忠政、家臣の薮田助太夫らに大工をつけて
小倉に派遣し、城の縄張りの絵図面を取らせた(平たく言えばスパイ)。

ところがこの一行、自分たちがヤバイ事をしている自覚はあったのか、
小倉沖で海上生活を送ったのは良いが、灯火が漏れてバレ、小倉城内に連行された。

一行の自白はたちまち城主に伝わったが、忠興は友人のオイタを笑って許したばかりか
本物の絵図面を土産に一行を解放してやった。
後に忠政がその図面を参考に居城・津山城を築いたとき、忠興は祝い品として
秘蔵の南蛮製の鐘を送り、鐘は津山城天守で長く時を告げたという。

↓ちゃーんと細川の九曜紋が入ってる
ttp://www.city.tsuyama.okayama.jp/chikujo400/history/chikujyo/index.html

2009年03月14日 | 戦国ネタ | コメント (10) このエントリーを含むはてなブックマーク
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