気まぐれへっどらいん

  Hカップ以上の娘にありがちなこと 上級編

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小田原提灯

267 名前:小田原提灯(一)[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 16:44:21 ID:z4nHQZyE
みなさんの家に提灯はありますか?え?みやげ物がホコリかぶってる?そうですか・・・

佐竹氏との戦に向かう北条家臣・山下民部は猛りに猛っていた。家老・松田憲秀の甥で、
謙信に「岩舟山に赤鬼の棲むと言いけるは、一体彼がことなるべし」とまで賞賛された、
松田康郷の騎馬隊に選ばれたからだ。

この抜擢に答えるべく、民部は旗指物を家中の勇者が良く使っている『提灯』にした。
それも、目立つように六個の提灯を連ねたものを。 「いざ、これにて功名せん!」

そんな民部を見て声をかけて来た男がいた。『地黄八幡』玉縄衆を代表する古兵、
その旗指物『七つ提灯』を関八州に知られる武辺隠れ無き老武者、三好孫太郎だった。

孫太郎「やあ。キミの旗指物には何か由来があるのかい?」
民部「別に何も・・・ただ、オレの心意気を示したかっただけです。」
-さすがに「あなたたちのマネです」とは言えない-

孫太郎「大道寺駿河守殿を知ってるかい?」家老の身で自ら先陣を切り、軍を鼓舞する
大武辺者・大道寺政繁は若者の憧れである。知らぬはずが無い。

「あの方の馬印は、『九つ提灯』だ。あれはね、大道寺殿が若い頃、敵将・本間近江守を
大格闘の末、討ち取る時に本間当人から武勇を称えられ、その勧めに従って造ったものさ。

オレは、天文15年の上杉との戦に初陣した。その時、一番槍の功名を立てて、氏康公に
感状をいただいた。感激したオレは、記念として旗指物に一つ提灯を差した。
以来、元亀2年に房州の海賊19人を討ち取るまで七度の手柄を立て、七つ提灯を差している。


268 名前:小田原提灯(二)[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 16:45:10 ID:z4nHQZyE
さて、大道寺殿の提灯には、かつての強敵(とも)の想いが詰まっている。オレの提灯には、
自分自身の誇りが詰まっている。キミの提灯には、何が詰まっているんだい?
・・・出撃の時間だ、オッサンの長話につき合わせてゴメンな。」

それきり、山下民部と三好孫太郎が会うことは無かった。
合戦が始まると、佐竹の侍から

「我こそは、大石八郎!北条の衆、我と思わん者あれば、組んで勝負せん!」
と名乗る者が現れて、長刀を風車のごとく振り回し、北条の侍を寄せ付けなかった。

誰も近づけぬ鬼のような武者目がけて、突進する者が現れた。 山下民部だった。
馬ごと大石にブチ当たった民部は、馬から転げ落ちながらこの強兵を引きずりこみ、

(キミの提灯には・・・

大石を組み伏せ、太刀で斬りつけた。

・・・何が詰まっているんだい?)

「・・・・・・・・」

見事に大石の首を挙げた民部は、自分の旗指物を外すと提灯を五つ引きちぎって捨てた。
一つだけになった提灯を差し直すと、再び馬にまたがり駆け出した。(北条五代記)

今じゃシケたみやげ物の提灯に、男の見栄と誇りが詰まってた、そんな時代のお話。

2008年12月30日 | 戦国ネタ | コメント (5) このエントリーを含むはてなブックマーク

細川の血達磨

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 10:05:31 ID:xDDT8x00
いい話というか、すさまじい話。ちょいグロ注意


細川の血達磨

細川忠興の時代、ある牢人の兄弟が仕官を求めてきた。
「われら、事に及んで他人の出来ない事をして、お役に立って見せましょう。」
そう、きっぱりと答える二人を頼もしく思い、それぞれ召抱えた。

ある時江戸に大火事があり、細川屋敷にまで延焼した。

幸い、屋敷にあった大事な道具類は皆、避難させたが、どうした失態か、細川家に秘蔵された
達磨の掛け軸が、屋敷の中に置き忘れられていた。
忠興はこれを大変惜しんでいたが、ここでかの兄弟が、「御殿はまだ焼けておりませぬ。
この間に我らが取ってまいりましょう。」と言った。

忠興は喜んだが、しかしこれを心配もし、「まだ火が回っていなければ達磨の掛け軸を取って来い。
もし、もう火が回っていれば、かまわないから早々に戻って来い。」と言って、彼らを送り出した。

兄弟が御殿に駆けつけると、まさに今、火が燃え移らんとしていたところだったが、
「今ならまだ間に合う」
と、もうもうたる煙の中を入っていった。達磨の掛け軸は、無事に床の間にかかっていた。
急いで外し、羽織に包み、それを持って脱出しようとした、
が、一足遅く火が回り、兄弟はもはやなすすべなく、焼け死んだ。


火が静まる。
焼け跡から、彼ら兄弟の死骸も見つかった。それは、驚くべき物だった。


兄弟は、先ず、兄が弟に手をかけて首を討ち、喉を切り開いて内臓を引き出し、その体の中に
羽織でよく包んだ掛け軸を押し込んだ。

さらに兄は自分の腹を十文字にかっ斬り、弟の遺骸を自分の腹の中に押し込み、抱きかかえるようにして
死んでいた。


掛け軸を取り出してみると、よく羽織に包んであったためえには血糊の一滴もついてはいなかったが、
上下左右の隅が、少しずつ血に染まっていた。

忠興はこれに深く感銘を受け、血のしみた掛け軸をわざと修復せず、兄弟それぞれが
裃をつけこの掛け軸を守るさまを新たに描かせ、あわせて三幅一対の掛け軸とした。

この絵はいつともなく「細川の血達磨」と呼ばれるようになり、今も大切に秘蔵されていると言う。

2008年12月27日 | 戦国ネタ | コメント (31) このエントリーを含むはてなブックマーク

板倉勝重の役人としての心構え

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/06(土) 02:06:40 ID:LH9GISrf
京都所司代として有名な板倉勝重の、役人としての心構えについて

家康が将軍職を辞して駿府へ隠退していた頃のお話

この時、家康は彦坂九兵衛なる者を駿府の町奉行に任命しようとした
ところが九兵衛は、とても自分には出来る仕事では無いとこれを断ろうとする
なので家康は、近日中に伊賀守(板倉勝重)が来るから一度相談して考えてみろと九兵衛に言った

やがて勝重が駿府へやってきたので、九兵衛は勝重の元を訪れ意見を聞いた
勝重は、九兵衛に役人たる者が守るべき事を説いてやった

「役人が守るべき事はただ一つしかない。それは賄賂を受けない事、これだけだ
お前が奉行となり、民に無実の罪が無いようにするならば、まず自分の欲を無くすことが大事なのだ
役人が無欲でさえあれば、民の言葉が嘘か誠かは火を見るように解るものだ」

「この私も、以前ある者から百両もの金を送られたことがある
無論私はそれを受け取りはしなかったが、それでもその者の罪を隠してやろうと思ってしまった。と九兵衛に打ち明けた」

九兵衛は勝重の言葉に感服し、駿府町奉行を拝命して優れた治績を上げたという

「奉行職で一番重要な事は、町人の賄賂を受け取らぬ事」これが勝重の口癖だった
一方で町人達には「お前達よ。何か訴訟の際には、まず奉行に物を贈るが良いぞ
そうすれば、たとえ奉行がその物を返してこようとも、自然に贔屓してしまうからな」と語り大笑していた言う

2008年12月10日 | 戦国ネタ | コメント (16) このエントリーを含むはてなブックマーク

日本時計事始

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 17:41:39 ID:Df36VSqJ
日本時計事始

織田信長が、南蛮人から南蛮時計を贈られた事があった。だが、当時の機械の事、すぐに故障した。
壊れた時計は、当然の事ながら日本人には修理できない。

「こんなもの役には立たない」

信長は南蛮人にこれを返し、代わりに南蛮帽子と孔雀の羽を譲ってもらった。

さて、慶長十年(1605)
徳川家康にも、南蛮時計が贈られた。もちろんすぐに故障した。
だが家康は、ここからが違った。「壊れたら、直せるようにすればいい。」
早速、当時細工で有名だった男が、家康のいる駿府に呼び出された。津田助左衛門政之。
京で牢人中だった。

壊れた時計を分解した政之は、たちまち仕組みを理解。その時計を直したのみならず、
さらにそのレプリカまで作り上げた。
家康は喜び、政之に褒美として時服をあたえ、御時計師として八十人扶持で召抱えた。

この「御時計師」は、幕府の技術職として定着する。
後、津田の一族が使えた尾張藩の史書「尾張志」はこう伝える

「自鳴磐、俗に時計という。常盤町津田助左衛門是をつくる。(中略)日本時計師の元祖ともいふべし」


ここに、和時計の歴史が始まったのだ。


131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 19:43:02 ID:lUBidacN
>>128
信長は宣教師から南蛮時計を寄贈されたけど「修理の仕方が分からないから」と言って
名残惜しそうにその場で返却したんじゃなかったっけか?
寄贈された南蛮時計をそのまま受け取って使用したという逸話もあるんだな。
まあ普通に考えて南蛮時計は当時は超ナウいブランド品みたいな物だから、
普通は修理なんて後先の事は考えずに喜んで受け取るだろうから、
信長も受け取ったという逸話の方が本当っぽいねw


135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 20:07:07 ID:0NMzpX5P
>>131
フロイス日本史には、宣教師が持ってた目覚まし時計を信長が非常に気にいってたので
「ぜひ差し上げます」と何度も言ったんだが、
「これを貰ってもいいが修理の仕方がわからない為すぐ駄目にしてしまうだろうから
私は受け取らないのである」とか言って貰わなかったと書いてあったよ。
以前に一度壊した事があったのかもね。
あとたくさんの献上品からも、いつも気に入ったものだけを受け取って後は返してしまうとか
合理的主義な信長らしいと思った。

ついでに個人的にウケた話
自ら食事のお膳を運んできてくれた信長、そんな父の見慣れない姿にキョドる奇妙丸。
感激したフロイス、お膳を頭の上に掲げて感謝を表した所、冷静に
「汁をこぼさないように持ちなさい」とツッコまれたとさ

2008年11月26日 | 戦国ネタ | コメント (11) このエントリーを含むはてなブックマーク

共に男らしく

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/07(金) 23:00:55 ID:MdlAUSIF
織田信長の武将として有名な稲葉一鉄の所で、下人の一人が罪を得、斬首にする、とした時の事。

その下人が「命が惜しい!ここで殺されるのは嫌だ!」と、泣き叫び暴れまわり、なかなか
斬首が出来ないとの事

これを聞いた一鉄が、どんな未練な男かと見に来ると、彼は下人に似合わぬ面魂をしていた。
それを奇怪に思った一鉄は

「何故そんなに卑怯未練に泣き喚く。そんなに命が惜しいのか?」と聞くと、下人は

「私は元々、あなたに謀略を持って殺された者の家臣だ。
主君の恨みを報じるため、あなたに一太刀でも加えようと、この様に身を落としてまで
生きながらえてきたが、つまらぬことで首を落とされることとなり、目的が果たせなくなった。

それが悔しくて、泣いたのだ。」

その言葉を聴いた一鉄は、家臣に彼の縄を解かせた。

「お前の忠魂に免じ、解き放つ。 わしを討てるものなら、討ってみよ。」
笑って言った。

「有難し」そう吐き捨てて、下人は立ち去った。



数年し、一鉄は病にかかり、やがて死んだ。
その少し後、あの下人が、一鉄の墓に詣でた

「私は、あなたに一太刀参らせんと狙い続けていましたが、ついに果たせず、
あなたは身罷ってしまいました。

これでは斬首の折に泣いた事、あれは命惜しさとのためだと思われてしまいます。

よって今、あなたの前で、相果てる」

そう言って、腹を掻っ切って、死んだ。

2008年11月10日 | 戦国ネタ | コメント (20) このエントリーを含むはてなブックマーク
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